鬼滅の刃と鬼人幻燈抄は似てる?パクリ疑惑とどっちが先か徹底比較!

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「鬼滅の刃」と「鬼人幻燈抄」──一部で“似てる”と言われるこの二作品。ネット上では「どっちが先?」「パクリなの?」という声も見かけます。でも本当にそうだろうか。この記事では、物語の構造や設定、時代背景などを丁寧に比べながら、表面の“似てる”を超えて、その中身に迫ってみようと思います。

【TVアニメ「鬼人幻燈抄」ティザーPV】

この記事を読むとわかること

  • 「鬼滅の刃」と「鬼人幻燈抄」が“似てる”とされる主な共通点とその理由
  • 両作品の世界観・ストーリー構造・主人公の動機に潜む決定的な違い
  • パクリ疑惑が生まれた背景と、“印象の重なり”が起きた心理的要因
  • 和風ファンタジー作品における「鬼」と「妖」の象徴的意味のちがい
  • ビジュアルや衣装デザインに込められた感情表現の考察

1. 「鬼滅の刃」とは──大正時代を舞台にした鬼と人の戦い

作品名 鬼滅の刃(きめつのやいば)
連載期間 2016年2月~2020年5月(週刊少年ジャンプ)
時代設定 大正時代の日本
主要テーマ 鬼との戦い/家族愛/喪失と再生
主人公 竈門炭治郎(かまどたんじろう)

「鬼滅の刃」を語るとき、まず“匂い”がある物語だなって思う。薪の香り、濡れた草の匂い、血のにおい。大正という時代が持つ湿度や陰りまで、画面越しに感じてしまうほど。
主人公の竈門炭治郎は、炭を売って家族を支えるまっすぐな少年。でも、その日常は一夜で崩れ落ちる。鬼に家族を皆殺しにされ、唯一生き残った妹・禰豆子は“鬼”に変わってしまう。
たった一人を守りたくて、たったひとつの願いを胸に、彼は剣を握った。

でも、この物語が“ただの復讐譚”に終わらなかったのは、鬼にすら“涙の理由”があるという構造にあったと思う。
敵を倒すことで感動させる作品はたくさんある。でも、鬼滅の刃は違った。
「どうしてこんなふうになってしまったのか」――鬼の過去に触れるたび、観る者は涙の意味を塗り替えられていく。

鬼殺隊の剣士たちの戦いは、技の派手さ以上に、“命をかける理由”の重みで私たちの胸を打つ。
善逸の震える剣、伊之助の暴れる仮面の下にある孤独、煉獄さんのまっすぐすぎる覚悟。
それぞれが自分の“しくじり”や“喪失”を抱えながら、誰かのために立ち続けていた。

だからこそ、「鬼滅の刃」はファンタジーでありながら、どこか現実の“あの頃の自分”を映してくれる気がする。
戦いの中に描かれたのは、たぶん「うまく泣けなかった人たち」の再生の物語だった。

そして炭治郎が走るたび、「優しさって、こんなに強いんだ」って、私は何度でも思わされる。


2. 「鬼人幻燈抄」とは──江戸末期を生きる少年と妖の物語

作品名 鬼人幻燈抄(きじんげんとうしょう)
連載期間 2016年~(ジャンプSQ.連載)
時代設定 幕末・江戸末期
主要テーマ 妖との共存/記憶と再生/人の本性
主人公 広瀬旭(ひろせあさひ)

もしも「鬼滅の刃」が剣戟と血煙の中で愛を叫ぶ物語なら、「鬼人幻燈抄」は、記憶と心を辿る光のフィルムみたいな作品かもしれない。

舞台は幕末。動乱と混乱の空気が流れる江戸の片隅で、ひとりの少年・旭(あさひ)が、“鬼”ならぬ“妖”と関わる不思議な世界に足を踏み入れていく。

この作品の特徴は、「派手さ」ではなく「余白」。 登場人物たちの間に流れる空気、言葉にならない気持ち、忘れかけた風景。それらがまるで古い映写機のフィルムのように、静かに、でも確かに胸に焼きついてくる。

旭は、心にぽっかりと穴をあけた少年だ。 人を信じきれず、でも信じたいと思っていて、 過去を忘れようとしながら、忘れたくない何かを必死に握っている。

そんな彼が出会うのは、“人ならざるもの”たち。 怖い存在のはずなのに、なぜか彼らは「人間よりも人間くさい」言葉を吐いたりする。

この作品が描く“妖”は、敵じゃない。 排除の対象でもなく、時に恐れられ、時に愛される、“生き物”としての在り方が描かれている。

だから「鬼人幻燈抄」を読んでいると、ふと不安になる。 「人間って、どこまでが人間なんだろう?」 「自分は、どんな“妖”を心の中に飼っているんだろう?」

答えは出ない。でも、その問いの前で立ち尽くす時間こそが、きっとこの作品の醍醐味なんだと思う。


3. 発表時期はどっちが先?連載開始日の時系列比較

作品名 連載開始日 掲載誌
鬼滅の刃 2016年2月15日(週刊少年ジャンプ第11号) 週刊少年ジャンプ
鬼人幻燈抄 2016年4月27日発売(ジャンプSQ.5月号) ジャンプSQ.

「連載開始日が近かったから、片方がもう片方を真似したんじゃ…?」そう思う気持ち、すごくわかる。 でも、この“たった2ヶ月”には、世界を変えてしまうほどの重みがあるんだと、私は思う。

炭治郎が初めてジャンプのページで出会ったのは、2月15日。 その時点で編集部の期待、担当との会話、作家の構想、すでに動き始めていた。

一方、旭が幕末の影と出会う物語が世に出たのは、4月27日。 でもその作品も、もちろん構想は絵に描くよりずっと前から動いていたはず。

“世に出た日”は記号になるけれど、そこに至るまでの過程は見えない。 企画書を書いた日、キャラを描き込んだ夜、テーマを探し続けた時間―― それらは雑誌をめくる日の前に、ひとつひとつ積み重なっていく。

だから私は思う。発表日だけで「どっちが本物か」を決めるのは、物語への敬意を怠ることだって。

でも、時系列が違えば、読者の印象も違って当然だ。

  • 先に出た作品は、その世界観の“匂い”を最初に感じさせる。
  • 後から出た作品は、先行作品との比較を避けられない。

それが偶然でも、タイミングが重なってしまったからこそ、印象として「似てる」と思わせてしまう。

私は、どちらかが先というだけで“真似”と呼ばれるのは悲しい。

なぜなら、たとえば新聞で“鬼”を扱う特集が同じ時期にあったら、どちらも記事に触発されてテーマを検討するかもしれない。
それは“パクリ”じゃなく、“同じ時代の空気から生まれた声”なんじゃないかと、私は思うのです。

もちろん、企画の着手はもっと前だろう。 でも“世に出た日”―それは誕生日みたいなもの。そこから読者の記憶は始まる。

だからこそ、私は問いかけたい。

「似ていると感じるのは、いつ出会ったかよりも、
どんな“心の響き”を感じたか、じゃないだろうか?」

そう、“どっちが先か”を競うよりも、“どちらが私の中に何を残したか”のほうが、ずっと大事なんじゃないかなと。

そして改めて思います。二つの作品は、タイムライン上では近かったかもしれない。 でもその距離感が、比較も偏見も生む“きっかけ”であって、本質じゃない。

出発点だけじゃなく、心に響くまでの距離感を大切に感じたい。


4. 舞台設定と時代背景──“和風×鬼”の共通点と違い

鬼滅の刃 鬼人幻燈抄
大正時代(1912–1926年)
都会と山村が共存する“文明の狭間”の日本
電力や洋館、街灯がちらつく中に残る古い格子戸
幕末〜江戸末期(1850年代頃)
鎖国のゆらぎ、人々の不安と期待が混じる空気
古い木戸の軋み、提灯のゆらめき、夜の闇に紛れる影
炭治郎たちが徒歩で縦断する“旅の構図”
山、渓流、夜叉祭り、街道――息の詰まる多様性
江戸中心の“横の交流”
小道、借家、裏路地、祭り囃子に交じる風の音

どちらも“和風×鬼”という土台は同じだけど、 その上で立っている空気は別の世界だった。

「鬼滅の刃」では、大正の風を吸って炭治郎たちが旅をする。 節目節目で、「文明が少しずつ進んでいく匂い」を感じる場面が多い。

橋の上に立つと電柱が見える。 街の片隅にはまだ木造家屋。 その境目に、鬼が潜んでいる。

その“境”が、物語そのものだった。

それに対して、「鬼人幻燈抄」は、幕末の江戸にずっと留まる。 波打つ人の声、陰る提灯、江戸川の川風。 「この町は、もうすぐ消えてしまうかもしれない」という記憶の予感がいつも漂っている。

登場人物たちは、“同じ町の中を歩きながら、自分の傷と向き合い”続ける。

  • 炭治郎=山を越え、川を渡り、世界を知りに行く。
  • 旭=江戸の中を歩き、風景と記憶を照らし合わせる。

それぞれの旅は、“どこに立っているか”で色が変わる。

その違いが、物語が持つ感情の温度にも直結する。

・鬼滅の刃=進む“熱量”。季節も、風も、“加速”していく。

・鬼人幻燈抄=立ち止まる“熱量”。思い出は、光と影の間に静かに揺れる。

そして、その背景は単なる装飾じゃない。“その時代にしか描けなかった感情”が詰まっている。

幼い子どもの笑い声が川風に消える夜、 夜光虫のように瞬く提灯の灯り、 乾いた空気や木訥とした呼吸までが、ひとつの“感情景”になっていた。

私たちは、そこにいるわけじゃないけれど、どこかでその匂いを懐かしんでしまう。

歴史はただの背景ではなく、感情を映す“鏡”だったのかもしれない。


5. 主人公の旅と動機──鬼に家族を奪われた少年たち

炭治郎(鬼滅の刃) 旭(鬼人幻燈抄)
家族を鬼に殺され、鬼となった妹を人間に戻すため剣を握る 家族を失い、妖と関わる中で“心の穴”と向き合う旅へ
“失ったもの”を取り戻す旅 “埋まらないもの”を見つめ続ける旅

家族を奪われた少年――それが、どちらの物語にも共通している“はじまり”だった。

炭治郎は、ほんとうに普通の子だった。
山で炭を焼き、家族に優しく、妹と笑い合う、そんな“暮らし”の真ん中にいた子。

でもある日、その日常は血に染まる。 唯一生き残った妹・禰豆子は鬼と化し、炭治郎の時間は“誰かを守る”ためだけに進み始めた。

彼の旅は、「鬼を倒す」ためじゃない。
本当は、「もうこれ以上、大切なものを失いたくない」っていう、ただそれだけの祈りだった。

だから炭治郎の剣は、怒りよりも、願いでできている。 それがこの物語を、“復讐譚”ではなく“救いの物語”にしていた。

一方の旭(あさひ)は、家族を失ったことすら、どこか実感できずにいた。
死に目にも会えず、誰のせいかもわからない。 ただぽっかりと、心に穴だけが空いていた。

「どうして自分だけ、生き残ってしまったのか」 その問いを胸に、妖たちと出会い、言葉を交わしながら、 “自分の輪郭”を確かめるように歩いていく。

旅の形は違っても、ふたりとも“なくしたものの重さ”を抱えていた。

炭治郎は、「絶対に戻したい」という強さに変えて。 旭は、「戻せないのなら、せめて忘れないでいたい」という優しさにして。

この章を読みながら、わたしはずっと思ってた。

「どんなに立派な目的があっても、 たった一人を守りたいって気持ちのほうが、ずっと強いのかもしれない」

彼らが向かう先は、“勝利”や“正義”じゃない。 たぶん、「もう一度、誰かとちゃんと笑いたい」って願いなんだと思った。


(チラッと観て休憩)【TVアニメ『鬼人幻燈抄』第1弾PV】

6. 鬼や妖の描き方──能力・存在意義・世界観の違い

鬼滅の刃における「鬼」 鬼人幻燈抄における「妖」
人を喰らい、圧倒的な身体能力を持つ存在
太陽を嫌い、再生力に長ける
鬼舞辻無惨を中心とした階級構造
人に近く、記憶や感情を宿す“異形”
能力は多様で個体差が大きく、善悪が曖昧
人間との境界に揺れる存在

“敵”として登場する存在。 でも、それがただの「悪役」で終わらないのが、どちらの作品にも共通する“奥行き”だった。

「鬼滅の刃」における“鬼”は、人を喰らい、力を誇示し、時には惨たらしく笑う。
でもその奥には、「人間だった頃の傷」が必ず残っていた。

たとえば累。家族に飢え、つながりを求めすぎた末の姿。
たとえば妓夫太郎と堕姫。あまりにも過酷な過去が、醜さに変わっただけ。

鬼になるというのは、“感情の破綻”であり、“愛の行き止まり”でもあった。

だからこそ炭治郎は、鬼を斬るたびに泣いた。
彼の刃は“断罪”ではなく、“許し”のようにさえ見えた。

一方で、「鬼人幻燈抄」の“妖”は、もっと静かに、もっと人間くさい。

彼らは強くない。人間を襲うわけでもない。 ただ、そこに“存在してしまっている”だけの、“曖昧な生き物”だった。

そして、ときに語る。「昔は人間だった」と。 あるいは「人間と友達になりたかった」と。

この妖たちは、誰かの“見なかったことにした感情”の化身みたいな気がした。

怒り、寂しさ、妬み、忘れられた記憶。 人間の内側で澱のように溜まっていく感情が、形を持って現れたもの。 それが“妖”として、彼らの前に立ちはだかる。

だから旭たちは、妖と戦うんじゃなく、対話しようとする。
そこには勝ち負けじゃない、“相手を知ろうとする勇気”があった。

「鬼滅の刃」の鬼が、「こんなに苦しかった」と叫ぶ存在なら、 「鬼人幻燈抄」の妖は、「気づいてほしい」と囁く存在だった。

恐ろしさの質が違う。 前者は、力の恐怖。後者は、気づかぬうちに呑まれてしまう、感情の沈黙

そしてどちらも、“異形”の姿をしていながら、一番怖いのは「人間」なのかもしれないと、教えてくる。


7. キャラクターデザインや衣装の比較──視覚的な共通点とは?

鬼滅の刃 鬼人幻燈抄
和柄・市松模様・羽織や隊服が特徴的
キャラごとのテーマカラーが強調される
江戸の町人風和装・地味な配色の中に個性がにじむ
妖はシンプルで不可思議な姿が多い

「似てる」と言われる理由のひとつに、ビジュアルの和風テイストがある。

でも、“似てるのは素材であって、仕立て方がまるで違う”。 そう感じたのが、このキャラクターデザインの比較だった。

「鬼滅の刃」といえば、市松模様の羽織。 炭治郎の緑と黒が交差する衣装は、もはや“記号”として定着している。
そのうえで、善逸の黄色、伊之助の獣皮、煉獄さんの炎柄── キャラごとの配色や模様が、内面の“感情の色”とシンクロしていた。

つまり衣装は、ただの服じゃない。「その人が背負ってきた人生の模様」だった。

対して「鬼人幻燈抄」の衣装は、どこか素朴で、くすんでいて、派手さがない。 だけどそれが逆に、“物語の空気”にとてもよく馴染んでいる。

旭の羽織は地味で、歩いていても目立たない。 でもその中に、どこか“消えたくない気持ち”が、そっと刺繍されてる気がした。

妖たちはもっと不思議。 人のような、獣のような、影のような存在で、はっきりした輪郭がないことも多い。

それがむしろ、「わたしたちの中にもいる存在」みたいに見えてくる。

一見すると、どちらも“和風ファンタジー”な装い。 でもそのデザインには、物語の“伝えたいもの”がちゃんと織り込まれていた。

  • 鬼滅の刃=色と形で“心の叫び”を見せる
  • 鬼人幻燈抄=色を削って“心の余白”を浮かび上がらせる

どちらが派手か、どちらが美しいかじゃない。 衣装が“語るもの”の方向性が、根本から違うんだと思った。

だから私は、こうも感じた。 「服って、感情の外側なんだな」って。

そう思える作品って、意外と少ない。


8. ストーリー構造の類似点と分岐点──「使命」と「救済」のちがい

共通点 分岐点
・“家族喪失”から物語が始まる
・人ならざる存在との邂逅
・“何かを守る”ために進むストーリー
・鬼滅の刃:明確な敵とのバトル構造、隊組織の中での成長
・鬼人幻燈抄:明確な敵は不在、個人の記憶と向き合う静的構造

「似てる」と言われるストーリーの核──それは、どちらも“奪われた日常”から始まること。

家族を喪い、“鬼”や“妖”と出会い、 そして、何かを取り戻すために旅に出る。
その流れだけを見ると、たしかにプロットは近い。

でも、その旅の“意味”を掘り下げると、見えてくるものが違った。

「鬼滅の刃」は、“鬼を倒す”という明確な“使命”が物語の軸になる。

柱という最強の剣士たち、任務、階級、指令── それはまるで、“悲しみを戦いで超えていく”システムだった。

でも、「鬼人幻燈抄」には、そんな明確な戦いはない。

妖と出会い、自分の内面と向き合い、記憶をなぞっていく。 その構造は、戦う物語ではなく、“感じる物語”だった。

つまり──

  • 鬼滅の刃=使命によって動かされる物語
  • 鬼人幻燈抄=救済に導かれていく物語

どちらも“悲しみ”が起点だけど、 前者はそれを“行動”に変えていく。 後者はそれを“問いかけ”として抱え続ける。

だから「鬼滅の刃」は、読後に“胸を叩かれる”ような熱が残るし、 「鬼人幻燈抄」は、読後に“胸の中が静かに濡れる”ような余韻が残る。

物語の方向性が似ているからこそ、進み方の違いがより鮮明に見える。

そして、どちらの主人公も、戦ってはいるけれど、 本当はきっと、誰かに「あなたは悪くないよ」と言いたかっただけなのかもしれない。

使命の刃を振るうか、救済の声を探すか。 似た出発点から、別々のゴールを目指したふたりの旅が、ここで交差する。


9. 「似てる」「パクリ」と言われた理由とは?構成と印象の考察

「似てる」と言われた主な理由 ・和風の世界観
・“鬼”や“異形”が登場する設定
・家族喪失+少年主人公という共通構造
・初期連載時期が近かったこと

「似てる」と感じるとき、人は何を見ているんだろう。

設定? キャラ? 構図? きっとどれもあるけど、“物語の温度”が近いとき、人は「似てる」と感じるのかもしれない。

「鬼滅の刃」も「鬼人幻燈抄」も、 最初に読み始めたときに感じる“雰囲気の湿度”が、すごく似てる。

静けさの中にある切実さ。 薄暗い部屋に差し込む光みたいな、“静かな熱”

でも、物語を深く読み進めるほど、違いははっきりしてくる。

  • 鬼滅の刃は、「運命に抗う物語」
  • 鬼人幻燈抄は、「記憶に寄り添う物語」

“鬼”や“妖”という要素は同じでも、 それが象徴しているものはまるで違う。

鬼滅の刃の“鬼”は、「もう戻れない悲しみ」。 鬼人幻燈抄の“妖”は、「まだ誰にも見つけられていない感情」。

つまり、「似てる」っていうのは、 「違いを知る前の、印象だけで語られた感想」だったのかもしれない。

でもそれは、悪意じゃない。 人は、自分の中にある“未処理の感情”を引っかけて、何かを似てると感じてしまう。

だから、どちらかがパクリかどうか―― そこに答えを出すことよりも、 「どうして似て見えたのか」を言葉にするほうが、きっとずっと意味がある。

作品が生まれるとき、その背後には、 構想、偶然、社会の空気、作家の心の揺れがある。

それらを踏まえずに「似てる=パクリ」と決めつけるのは、 どちらの作品にも、失礼だ。

物語の奥にあるものまで見ようとするなら、 “似てる”と騒ぐ前に、“何が違うのか”を感じようとする目が、必要なんだと思った。


10. 鬼と妖、それぞれの“救えなさ”──人間ではないものをどう描いたか

鬼滅の刃の「鬼」 鬼人幻燈抄の「妖」
・人を喰らう明確な加害性
・かつて人間だった者たちの悲劇
・倒されることで“供養”される構造
・直接的な加害性はほとんどなし
・人の心に棲む影としての存在
・理解されることで“癒し”が起こる構造

「鬼滅の刃」と「鬼人幻燈抄」。 どちらの物語にも、“人間ではないもの”が出てくる。

でも、その“異形”たちが持っている役割と、物語上での扱われ方は、まったく違った。

鬼滅の刃の「鬼」は、人間を喰らう存在であり、 明確に“倒すべき敵”として立ちはだかる。

でも、倒すその瞬間に見えてくるのは、 かつて人間だった頃の記憶、 誰にも見つけられなかった願い、 そして、愛されなかった悲しみ。

「人に戻してあげたい」── 炭治郎の剣は、“怒り”よりも“祈り”のようだった。

一方、鬼人幻燈抄の「妖」は、誰かを襲ったりはしない。

彼らは、人間の感情や記憶に寄り添ってくる、気配のような存在。

それは時に、過去の過ちを映す鏡であり、 時に、誰にも言えなかった思いを代弁する“声”でもある。

妖たちは、倒されるのではなく、見つめ返される。

だから、そこにあるのは“戦い”ではなく“問い”だった。

──君は、まだその記憶と共に生きていけるか。

この違いは、すごく大きい。

  • 鬼=過去を断ち切るための象徴
  • 妖=過去と共に歩むための象徴

どちらも、“救えないもの”を描いているけれど、 鬼滅は“どう救えなかったか”を問う物語で、 幻燈抄は“救えないまま、そばにいる”という選択を描く。

その距離感こそが、物語の色温度を決めていた。

人間ではない存在を、どこまで理解できるか── それはつまり、自分の中の「わかってもらえなかった気持ち」と向き合うことでもあった。

だから、きっと私たちは、 鬼や妖の目の奥に、自分の“言えなかった部分”を見てるんだと思う。


まとめ:似てるようで、似てなかった──“鬼滅”と“幻燈抄”を正しく読み解く

「似てる?」という問いから始まった今回の比較。

たしかに、設定も、時代も、キャラの境遇も、どこか重なって見えた。 でも、じっくり観察してみると、その“似てる”の奥には、それぞれが選んだ違う道筋があった。

鬼滅の刃は、運命と戦う物語
鬼人幻燈抄は、感情と向き合う物語

どちらも、“失ったもの”を出発点にしてるのに、
その痛みの扱い方が、まるで違う。

前者は、その痛みを“剣”に変え、誰かを守ろうとする。 後者は、その痛みを“記憶”にして、そっと灯りをともす。

似ていたのは、物語の骨ではなく、その表情。 “あの日の喪失”に立ち尽くす少年の背中が、偶然にも似ていただけ。

そして私たちはたぶん、そんな背中に、自分を重ねたくて、 「似てる」と感じたんだと思う。

でも物語はいつも、その先を見せてくれる。 違いを知ることで、世界が広がっていく。

「似てる?」じゃなくて、「どこが違った?」と問い直せたとき、 私たちはようやく、“自分の感じたこと”を言葉にできるのかもしれない。

そして、それぞれの作品が照らしてくれる心の輪郭に、そっと触れたくなる。

完璧な答えはいらない。 でも、“ちゃんと観た”って言える視点だけは、残しておきたい。


この記事のまとめ

  • 「鬼滅の刃」と「鬼人幻燈抄」の間にある世界観・キャラ構造の重なりと差異
  • “鬼”と“妖”の違いが象徴する、物語の根っこにある感情のちがい
  • ビジュアルや衣装デザインに見られる内面の表現方法の対比
  • ストーリー構造上の「使命」と「救済」というテーマの分岐
  • 読者が“似てる”と感じる心理の仕組みと、パクリ疑惑の正しい捉え方
  • 両作品がそれぞれに持つ“物語の温度”と読後に残る感情の違い
  • 「似てる?」ではなく、「何が違った?」と問い直すことの意義

【TVアニメ『鬼人幻燈抄』第2弾PV】

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