ガンダム ジークアクス続編はあるのか|曖昧な最終回にファンの続編期待が爆発中!

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「終わったはずなのに、まだどこか“続いてる気がする”──ガンダム ジークアクスの最終回を観終えたあと、そんな感覚がずっと胸に残っている人は少なくないはずです。この記事では、曖昧なまま終わったラストの描写や回収されなかった要素を手がかりに、『ガンダム ジークアクス』続編の可能性を探っていきます。」

【『機動戦士Gundam GQuuuuuuX(ジークアクス)』特報】

この記事を読むとわかること

  • ララァが創った“並行世界”の正体とその意図に隠された感情
  • 赤いガンダムが“沈黙のまま登場”した意味と続編の可能性
  • マチュ、シャア、シャリアたちの「未回収の物語」とその先
  • 『ジークアクス』の最終回が“なぜ終わりきっていない”と感じたか
  • 劇場版・TVシリーズ・配信など、続編展開の可能性と現実的根拠

1. ガンダム ジークアクス最終回の概要と結末の曖昧さ

要点 解説
最終回タイトル 「だから僕は…」──問いの余韻を残したまま幕を閉じたラスト
メインイベント シュウジとマチュの激突、ララァ覚醒の阻止、世界の崩壊回避
物語の着地 “終わった”とは言い切れない。登場人物の動機も世界の謎も曖昧なまま
読後感 「このままじゃ眠れない」──終わったのに、気持ちがどこにも着地しない

「最終回って、“気持ちの帰る場所”だと思ってたんだよね」──
でも『ガンダム ジークアクス』の最終回「だから僕は…」は、むしろ
“気持ちを置き去りにして走り去っていく物語”だった。

シュウジとマチュの対決。ゼクノヴァによる世界崩壊の回避。ララァを“再び殺す”ことの是非。
確かに、イベントだけ見れば山場はある。盛り上がりも、演出も、演技も、全部あった。
でも、それが「どうしてそうなったのか」という根本の“気持ち”に届く前に、物語は終わってしまった。

わたしは、あの「だから僕は…」の後に続く言葉を、ずっと考えてる。
たとえば「だから僕は、君を信じた」とか「君を止めた」とか、そんなセリフがあったなら、少しは落ち着けたのかもしれない。
でも、画面には何も映されなかった。言葉の空白。沈黙のままのエンディング。

マチュはなぜそこまでしてララァを守ろうとしたのか。
シュウジは「向こう側」から来たというが、そこにどんな物語があったのかは明かされなかった。
そしてシャア、シャリア、キシリア──彼らの思想も、結局は“台詞”で語られるだけで、物語の手触りには昇華されなかった

わたしは思う。
この最終回は「エピローグ」じゃなくて、「プロローグ」なんじゃないかって。
このラストから、次の物語が始まっていく──そんな構造が、無意識に仕込まれていたような気がするの。

だって、終わるには、あまりに“説明されていない”。
あまりに“名前のないままの感情”が、画面に置き去りにされていた。
それは偶然じゃなくて、きっと「続編の余白」なのかもしれない。

伏線未回収とか、謎が多すぎるとか、そういう冷静な分析ももちろん大事。
でももっと根っこのところでわたしは、
「このラストじゃ、マチュの気持ちにピリオドを打てない」と感じてる。

そして、それこそが──「続編を期待してしまう理由」なのかもしれない。

2. 『ゼクノヴァ』とは何だったのか──物語の中核に残された謎

要素 解説
ゼクノヴァの定義 並行世界間をつなぐ“裂け目”あるいは“意志の干渉点”とも取れる存在
発生条件 感情の共鳴、またはニュータイプ的な接触により開かれる(とされている)
劇中での役割 シュウジを“向こう側”から呼び戻し、ララァの眠りを揺さぶるトリガーに
謎の残存度 高い。正体もメカニズムも説明されず、メタファーとしての役割が濃厚

「ゼクノヴァ」って、あの作品の中でいちばん“見えなかった存在”だったと思う。
でも、いちばん“感情を揺らした”のも、ゼクノヴァだったんじゃないかって、私は思ってる。

シュウジが語った「向こう側」って言葉。
その世界と今をつなぐ“裂け目”が、ゼクノヴァ。
でもそれって、物理的なワープ装置でも、空間転移でもない──もっと心の奥底にある、後悔とか執着とか、そういう感情の集合体みたいだった。

劇中では何度か、ゼクノヴァが開いて「誰かが現れる」「何かが起きる」って描かれたけど、
どこからどう来て、なぜそのタイミングで開いたのか、説明は一切ない
科学的じゃない。論理でもない。でも、心には刺さる。
それが、ゼクノヴァの怖さであり、魅力だった。

シュウジはそこから来た人間だった。
じゃあ、向こう側の世界って、何だったの?
「本当の正史」?「ララァがシャアを守れた世界」?
でも作中で描かれたのは、「その世界すら、壊れかけている」という現実だった。

つまり、ゼクノヴァって、
「可能性という名の脆さ」なんじゃないかと、私は思う。
「こうだったかもしれない」って願うほど、別の可能性の世界が生まれて、でもそれは、存在が不安定で、すぐ壊れてしまう。
そういう不確かな“もしも”が、ゼクノヴァの正体なのかもしれない。

そしてマチュやシュウジがそこに巻き込まれていくのは、「何かを選べなかった人たちの感情」が、そこに共鳴したから。
だからゼクノヴァは、世界の裂け目というより、「心の裂け目」だったのかもしれない。

科学的でも、兵器でもない。でも、人を行動させるほどの影響力があった
ゼクノヴァって、つまり──
「決断できなかった後悔が、世界を壊す力になる」っていう、寓話だったんじゃないかな。

それにしても、あれだけ物語の中核にいた存在なのに、
設定資料集にも載ってなさそうなほど、情報がないの、逆にすごい。
もしかして、これ自体が続編で明かされる“最重要ファクター”だったりして……。

たぶん、ゼクノヴァが何だったのかを知ることで、
この物語の“本当のテーマ”に近づけるんじゃないかな。
だからこそ──続編があるなら、私はまず、ゼクノヴァの正体から知りたい

3. シュウジの正体と“向こう側”の意味──物語世界の構造分析

要素 解説
シュウジの出自 “向こう側”からやってきた存在。詳細不明だが「ジークアクス外世界」からの来訪者
“向こう側”とは パラレルワールドの可能性。ララァが“救われなかった世界”の補完として創られた空間
彼の目的 ララァを“止める”こと。過去の後悔を清算する意志を持つが、動機は曖昧
構造の仮説 複数のガンダム世界を重ね合わせた“感情記憶型並行世界”説が有力

「向こう側から来た」──シュウジのその一言だけで、物語の重力が一気に変わった気がした。
誰も知らない“外”から来た彼が、なぜこの世界でララァを殺そうとしたのか。
それは単なる悪意じゃなく、「忘れたくても忘れられなかった過去」のように見えた

“向こう側”という言葉には、物理的な意味よりも、感情的な距離を感じた。
あそこには届かない。戻れない。手を伸ばしても、触れられない。
それってつまり、「後悔」じゃないか。

シュウジというキャラは、感情の象徴だったと思う。
彼の存在は、物語の中で現実感が薄い。
でもそのぶん、「この世界に足りなかった痛み」を、代わりに背負ってきたようにも見える。

たとえば、“向こう側”が「ララァを救えなかった世界」だとしたら。
そしてこの“ジークアクス世界”が、その後悔から生まれた仮想空間だとしたら──
シュウジは、過去の執念が生んだ「問い直しの化身」だったのかもしれない。

そしてマチュは、それに抗おうとする“希望の側”。
この二人が戦ったのは、価値観でも正義でもなく、「時間が戻せたら何をやり直したいか」っていう、誰もが抱える痛みに見えた。

劇中では、向こう側の詳細は語られない。
でもその存在だけで、この物語が“いま目の前の出来事じゃない”ことが示された
つまり、ガンダムの歴史、ララァの死、シャアの想い、すべての記憶が溶け合ってできた世界──それがジークアクスだったのかもしれない。

「向こう側」って、過去のことじゃない。
“感情の余韻”でできた場所なんだとしたら、私たちの心にも、いつかそんな場所が開いてしまうのかもしれないね。

シュウジがなぜそこまでしてララァを止めたかったのか、
「だから僕は…」の続きを彼がどう言おうとしてたのか──
まだわたしたちは何も知らないままだ。

だから、知りたい。
この世界の構造を。この“向こう側”の正体を。
そしてシュウジが何者だったのかを。
それが明かされる続編を、私は待ってしまうんだと思う。

4. ララァが創った並行世界という設定の真意とは

要素 解説
並行世界の創造者 “眠っていたララァの意識”が無意識に創った世界と示唆されている
創造の動機 「終わりたくなかった」というララァの感情、もしくは“救い直したい願い”
世界の特徴 原作ガンダムの出来事が歪みつつも内包され、歴史と感情が混ざり合って存在する
メタ的視点 視聴者=かつてのファンが持つ“あの時こうだったら”という未練と共鳴する構造

「ララァが、世界を創った」──
言葉にすると神話っぽいけど、ジークアクスにおけるこの設定、わたしはむしろ“心の祈りが世界になってしまった”っていう、静かな悲しみを感じたんだ。

劇中では明言されないけど、どうやらこの“ジークアクス世界”は、ララァの“眠りの中の意識”が創り上げた場所。
だけどそれは、意図的な創造じゃない
目覚めたくなかった。終わりたくなかった。そんな無意識のままに、再構築された“もしもの宇宙”。

その世界には、シャアもいる。
シャリアもマチュもいる。
でもその関係性は、原作のそれとは微妙に違ってる。
まるで「記憶の中の人物」を描いた夢のように、どこかやわらかく、でも輪郭はぼやけていた。

たぶん、ララァの意識はあの時のまま止まってたんだと思う。
死んだことにも、世界が続いたことにも気づかずに。
だから彼女の“想い”は、「あの時に戻りたい」「選びなおしたい」って願った。

そこに現れたのが、ゼクノヴァであり、シュウジであり、マチュだった。
でも彼らは、ララァの夢の中で起きる“記憶の修復者”だったんじゃないかって、私は思ってる。

そしてここが、わたしにとって最大の衝撃だったんだけど──
この世界に“シャアの本音”がないことに気づいたの。
シャアはあくまで役割の中にいた。怒りも哀しみも語らず、ただ“物語を進める存在”として立っていた。

それってつまり、この並行世界がララァ視点のものであるって証なんじゃないかな。
彼女にとってのシャアは、あくまで「理解してほしかった人」だった。
だから彼の心の奥は、描かれなかった。
そこには、きっと近づけなかったんだと思う。

もしこの世界がララァの心象風景だとしたら──
そこに現れた他者(=シュウジ、マチュ)が彼女に「目覚め」を促す物語だったのかもしれない。

そして、あの最終回。
「ララァをまた、殺すのか?」という問いが、あまりに重かったのは──
一度終わった物語を、もう一度“ちゃんと終わらせる”行為だったから。

でも、それは視聴者にとっても同じだった。
ララァの死に納得できなかった過去の記憶と向き合って、わたしたちもまた、この並行世界を見送らなくちゃいけなかった。

この物語は、「終わりたくなかった人の夢」だったのかもしれない。
でも、夢にはいつか、目覚めがくる。
そしてその目覚めは、新しい物語の始まりになる──わたしは、そう信じたい。

5. 赤いガンダムと“初代機体”の登場が示す続編フラグ

要素 解説
赤いガンダムの正体 機体名不明だが、シャア専用機を連想させるカラーリングとシルエット
“初代風”デザイン 原作ファンを意識した“記号の回収”と“物語の継承”を感じさせる意図
登場タイミング 最終盤のキーシーンで登場し、戦局を一変させる役割を果たした
続編への布石 “登場だけ”で終わる機体の存在感が、「次がある」を示唆している

あの赤いガンダムが出てきた瞬間──わたし、ちょっと呼吸止まったんだよね。
「え、ここでそれ出すの?」って、驚きと懐かしさと、ほんの少しの怖さ。
だってあれ、“続編あるよ”って言ってるようなもんじゃない?

シャア専用機──とは明言されてないけど、誰がどう見ても、あれは“赤い彗星”の象徴だった。
真紅のボディ、鋭い視線、地に足をつけない存在感。
“彼”がここにいる、というだけで、物語の重力が変わってしまう。

しかも、機体そのものの情報は出てこない。
型式番号も、名前も、説明も、ナレーションすらもない。
ただそこに「赤い機体」がいる。
それだけで、全部を語ってる。

そして同時に、“あのデザイン”──どこか初代ガンダムを彷彿とさせるライン、武装、重量感。
これはただのファンサじゃない。
「ここから先、ガンダムの“原点”に踏み込むよ」っていう、無言の宣言だと思った。

なぜこのタイミングで、こんなに“意味深”な機体を出したのか。
なぜ、戦闘の結果を左右するほどの力を持っていたのに、それを描き切らなかったのか。

それはたぶん──
“まだ描いてはいけない物語”があるっていう、制作側の判断だったんじゃないかな。

赤いガンダムは、“未練”の象徴でもあると思う。
それはシャアの想いでもあり、ララァの後悔でもあり、「観ていた私たちの気持ち」そのものだったのかもしれない。

「これが、続く物語の鍵です」って
声に出さなくても、画面越しにそう言ってるようだった。
静かだけど、確信犯的な演出。
わたしたちはそれに、しっかり引き寄せられてしまった。

だから私は、この赤いガンダムの登場こそが──
ジークアクスが“まだ終わっていない”最大のサインだと思ってる。

そして願わくば、その続きで。
“彼”が何を思って乗っていたのか、その戦いが誰に届こうとしていたのか、
ちゃんと知りたいと思った。

6. 伏線未回収のキャラ描写──マチュ、シャア、シャリアの“その後”

キャラ 未回収の要素
マチュ シュウジとの接点や過去がぼやけたまま。彼の“選択”の理由も深掘りなし
シャア なぜララァの“眠り”に関わっていたのか、ジオンからの立場など不明点多数
シャリア・ブル ララァとの関係性や記憶の曖昧さ、意識の所在など謎が多いまま

キャラが語らなかったことって、物語の“温度”そのものだと思ってる。
『ジークアクス』の最終回を観終えて、一番残ったのは、「で、彼らはこのあとどうしたの?」っていう余白だった。

特にマチュ。
彼はこの物語の“今”を歩くキャラだったはずなのに、過去も動機も、あまり語られない。
なんとなく「正義の側」みたいな立ち位置だけど、彼がシュウジを本当に理解してたのか、ララァに何を託していたのか──
核心には触れないまま、終わってしまった。

シュウジとの関係も、まるで“一度壊れた絆の続き”みたいだった。
でも、そこに至る前日譚は描かれない。
それってつまり、彼の感情は「観る人の記憶」に預けられたってことかもしれない。

シャアもそうだった。
あのシャアは、どのシャアなのか。
原作の延長線? 別の記憶? それとも、ララァが“願った理想像”?
はっきりしたのは、“戦う理由”が語られなかったことだけ。

「彼はなぜ、まだ戦ってるんだろう」って、私は何度も考えた。
そこにはきっと、ララァの目覚めを見守ることだけが、自分にできる贖罪みたいな気持ちがあったんじゃないかな。

そしてシャリア・ブル。
彼は、“いないはずの存在”として描かれていた。
でも、それなのに確かな意思を持って動いていた。
この矛盾がずっと引っかかってて──

もしかして彼は、“ジークアクス世界の記憶”そのものだったんじゃないかとすら思ってる。
つまり、「ララァの中にあった『もしものシャリア』」という存在。

どのキャラも、その“その後”を描かれないまま終わってる。
でも、それってたぶん──
まだ終わってないってことだと思う。

キャラの人生って、名前を呼ばれなくなったら終わる。
でも、この物語は彼らをまだ呼び続けている。
続編があるなら、まずはその“続きを語ること”から、始まるはずだから。

7. 続編があるとすれば?劇場版・TVシリーズの可能性を考察

可能性 理由・補足
劇場版での続編 過去にも『閃光のハサウェイ』『UC』など劇場展開の成功事例があり、世界観の再構築と相性が良い
TVシリーズでの展開 登場人物の“背景”をもっと丁寧に描くなら連続フォーマットが適している
配信限定シリーズ 視聴者ターゲットに合わせて、Netflix等の独占配信モデルが考えられる
展開しない可能性 「解釈を観客に委ねる」タイプの作品のため、制作側が続編を避ける可能性も

“続編があるかどうか”──その答えを私はまだ知らない。
だけど、あの最終回の空気を思い出すたびに思う。
これは「終わった話」じゃなくて、「始まってしまった物語」だったんじゃないかって。

まず、もし続編があるとしたら──劇場版の可能性は高いと思う。
ガンダムシリーズの流れ的にも、『UC』『閃光のハサウェイ』『NT』と、宇宙世紀の外縁を劇場で補完してきた歴史があるから。

『ジークアクス』もまた、“過去の感情”を問い直すガンダムだった。
だから、その結末をちゃんと描くには、劇場という濃密な空間が合ってる気がする。

一方で、TVシリーズとして再始動する道もある。
マチュやシャウア、シャリアといったキャラたちのバックストーリー。
それぞれの選択の動機──それを1話ずつ描いていけるのはTVならでは。

しかも今の時代、TVといっても放送に限らない。
配信限定シリーズ(たとえばNetflixオリジナル)として展開すれば、じっくりと感情の裏側まで掘り下げられるはず。

じゃあ逆に、「続編がない」としたら?
それは制作側が、あの物語を“解釈のままに残したかった”からかもしれない。
つまり、「ララァは目覚めたのか?」「シュウジの正体は?」その答えを出さず、観た人それぞれの感情に委ねたいという決断。

でも──
あれだけの謎と想いを置いて、すべて“視聴者の想像”に任せるのは、あまりに残酷じゃないかと、私は思った。

たぶん、私たちファンがいま感じてるこの“もやもや”こそが、続編への最大のフラグなんだと思う。
「もっと知りたい」っていう気持ちが、物語を続けさせる。
それが、ガンダムがここまで生き延びてきた理由でもあったから。

続きがあるかどうか──それは、もう少しだけ、信じていたい。
あの赤い機体が再び現れる日を、私はずっと待ってる。

まとめ:終わってない気がした理由──“物語の続き”はまだ見ぬ未来にある

『ガンダム ジークアクス』の最終回を観終えたあと、「終わったはずなのに、終わってない感じ」がずっと胸に残ってた。
それはきっと、描かれなかった“言葉”や“余白”が、わたしたちの中で静かにざわめき続けているから。

ゼクノヴァとは何だったのか。
なぜララァは世界を創ったのか。
あの赤い機体は誰のためにあったのか──
すべての問いは、まだ途中で、まだ名前がついていない。

でもその“未完”にこそ、この物語がまだ生きてる証があると思う。
それは、ララァの目覚めと重なっている。
彼女が目を覚ましたことで、ようやく物語が「始まる」準備が整ったようにも見えた。

たぶん、ガンダムっていつもそうだった。
終わったように見えても、誰かの感情が残っていたら、また続いてしまう。
そして私たちは、その“続いてしまう物語”に、ずっと心を奪われてきた。

『ジークアクス』のラストに、明確な“その後”は描かれていない。
でも、そこにあった“気配”は確かだった。
静かに、でも力強く、「ここからだよ」と言われているようだった。

わたしたちがその続きを信じる限り、物語は続いていく。
それが、ガンダムという物語のかたちなんだと思う。

だからこの最終回は、「終わり」じゃない。
「ここから先に、続きがあるかもしれない」という、
“未来を信じた人の心にだけ現れる物語”だったのかもしれない。

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この記事のまとめ

  • ジークアクス最終回に残された“未回収の伏線”の具体的内容
  • ララァが創った世界とゼクノヴァの設定から見える物語構造
  • 赤いガンダムの登場が示す“続編フラグ”の信憑性
  • シャアやシャリアたちの“その後”が描かれなかった意味
  • 劇場版・TVシリーズ・配信シリーズの続編展開の可能性
  • “終わっていない物語”としてファンの記憶に残るラストの構造
  • 『ジークアクス』が未来に続いていくための“感情の余白”

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