【チェンソーマン】アニメ版は本当に失敗?原作ファンが怒った9つの理由

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「あの名作が、なぜこんなにも賛否を呼んだのか──」 アニメ『チェンソーマン』をめぐる評価は、ただの「好みの問題」じゃない。原作ファンが覚えた違和感、声にならなかった怒り。その裏には、“伝えたいことの温度”がズレてしまった痛みがあったのかもしれません。この記事では、アニメ版『チェンソーマン』に対する原作ファンの反発をもとに、「どこで、なにが、どうずれてしまったのか」を紐解いていきます。

この記事を読むとわかること

  • アニメ版『チェンソーマン』が“原作ファンから不満を買った9つの具体的な理由
  • 演出・テンポ・ギャグ・キャラ解釈など、各方面での“感情のズレ”の本質
  • ファンの怒りの裏側にある“期待”と“愛情”のすれ違い構造

【”Chainsaw Man – The Movie: Reze Arc” Official Teaser 2/劇場版『チェンソーマン レゼ篇』特報】

失敗理由①:“実写的すぎる演出”がアニメならではの疾走感を奪った

失敗理由① 要点
“実写的すぎる演出”がアニメならではの疾走感を奪った アニメに求められたテンポ・ギャグ・視覚的勢いが、「リアルなカメラワーク・間の取り方」によって失われ、原作の魅力と乖離した

『チェンソーマン』アニメ版が賛否を巻き起こした大きな理由のひとつ── それは、**原作の“漫画的疾走感”をアニメが十分に再現できなかったこと**にある。

制作を担当したMAPPAは、その高い映像美とリアルな演出センスで知られている。 しかし、今回のアニメ『チェンソーマン』は、その“リアルさ”が、逆に足かせになってしまった。

本作で顕著だったのが、**映画のようなカメラワークと、実写的な間の取り方**。 これにより、視聴体験はスタイリッシュで高級感のあるものになった。──でも、それは原作が持っていた“ゴリ押しの勢い”や“無茶苦茶な面白さ”とは、**まったく別の方向の魅力**だった。

原作の魅力1:テンポと“崩し”のバランス

  • ページをめくるごとに進むスピード感
  • シリアスとギャグの切り替えが一瞬で起きる大胆さ
  • 過剰なくらいに“振り切った”表情やポーズ

これらが、アニメでは“間”や“リアルな芝居”を重視するあまり、間延びしてしまった。 特にデンジやパワーのハチャメチャなテンションが、画面の中でやけに“抑制された存在”に見えてしまったことが、ファンの間で不満の火種になった。

「躍動感」より「沈黙」を選んだ演出──どちらが正解だった?

演出を手がけた中山竜監督は、明らかに“深みのある表現”を目指していた。 カメラはスライドし、静止し、ゆっくりズームする。光と影、生活音、呼吸──

たしかにそれは“映画”の文法としては正しい。 でも『チェンソーマン』という作品に必要だったのは、**観る側の感情を無理やり連れていくようなスピード感とノリ**だったのではないだろうか。

“ちゃんとしすぎていた”のだ。 原作があえて壊していた“絵の雑味”や“セリフの荒っぽさ”が、**アニメ化で滑らかに整えられてしまった**ことによって、 観る側の心が動く“衝動”のようなものが薄れてしまった。

ファンが期待していた“アニメらしさ”が足りなかった

アニメにはアニメにしかできない“デフォルメと誇張”の表現がある。 『進撃の巨人』や『呪術廻戦』でのMAPPAの表現力はまさにその到達点だった。

しかし『チェンソーマン』では、「映像としての完成度」を優先したがために、 “アニメとしての爆発力”が封印されてしまったのではないか。

だからこそ、原作のファンが口々に言った「これじゃない感」は、ただの好みの問題じゃない。 もっと根っこの部分で──**作品の体温が変わってしまった**ような、そんな痛みだったんじゃないかと思う。

「アニメなのに、アニメっぽくなかった」

それが、原作ファンが最初に覚えた、小さくて深い“しくじり”だったのかもしれない。

失敗理由②:原作のギャグセンスが抜け落ちた──軽さが“なかったこと”にされた理由

失敗理由② 要点
原作のギャグセンスが抜け落ちた──軽さが“なかったこと”にされた理由 原作特有のブラックユーモアやギャグ表現がアニメで排除・抑制され、キャラの魅力やテンポ感に違和感が生まれた

『チェンソーマン』って、血まみれでグロくて、でも……笑える作品だった。 その“笑い”が、ただのおふざけじゃなくて、「生きること」に対する抗いのように響いてた。

なのにアニメ版では、その命綱のようなギャグが、どこかで“なかったこと”にされたように感じた。

デンジのバカみたいな欲望──「パンが食べたい」「女の子とイチャイチャしたい」 それを全力で叫ぶからこそ、彼の哀しさや痛みが浮かび上がる。 けれどアニメは、そこを「静かに」描こうとした。テンションもテンポも抑えて。

とくに、序盤で大事だった“コメディリリーフとしての緩急”。 それが薄まったことで、全体がどこか無音のドラマみたいに見えてしまった。

パワーのハチャメチャなキャラ、アキとの絶妙な掛け合い。 原作では“ドタバタ劇”のようなやり取りが、アニメになると、ちょっと丁寧すぎて間延びした。

本来なら視聴者の肩の力を抜かせるシーンが、“意図の重み”で潰されてしまったように思う。

この“ギャグの消失”が何を奪ったのかというと── キャラクターが「感情で好きになれない」状態を作ってしまったこと。 視聴者が“笑うことで愛着を持つ”流れが断たれていた。

笑わせるって、実は一番むずかしい演出。 だけど『チェンソーマン』という作品において、それは「救いの代替手段」でもあった。

「ふざけてるけど、これが生きるってことじゃん?」

その“余白の哲学”が、アニメではどこか置き去りにされた気がする。

もし“ふざけた声”を削ることで“芯のある物語”を描いたつもりだったなら── それは、あまりに「整えすぎた」やさしさだったのかもしれない。

失敗理由③:デンジの叫びが聞こえない──セリフと感情の間に生まれた距離感

失敗理由③ 要点
デンジの叫びが聞こえない──セリフと感情の間に生まれた距離感 アニメでは主人公デンジの“感情の爆発”が抑制されすぎ、セリフの熱量と表現のトーンが合わずにキャラの心情が視聴者に届きづらかった

「うるさいくらいが、ちょうどいい」。 デンジというキャラクターは、あの破天荒な世界の中で、唯一“生きたい”を爆音で叫んでいた存在だった。

でもアニメ版で私たちが耳にしたのは──抑えられた声、淡々としたテンション、 まるで自分の願望にすら半信半疑みたいな、どこか他人事なモノローグだった。

デンジのセリフは、たしかに原作通りだった。 でも、**叫びではなかった**。 そこにあるはずの「必死さ」「情けなさ」「滑稽さ」──そういった体温が、 演技と演出のバランスの中でどこか摩耗してしまっていた。

これは声優の技量の話ではなく、 「キャラの感情と、演出トーンの整合性が取れていなかった」という話だと思う。

たとえば、“心から叫ぶ”という表現をしたいなら、演出側がそれに寄り添って、 カメラを揺らし、BGMを外し、空気を振動させるように仕立てる必要がある。

けれどアニメ『チェンソーマン』では、それがなかった。 セリフだけが浮いて聞こえる場面が多く、「あれ?今の感情、どこ行った?」と、観てる側が取り残される感覚すらあった。

演出が“沈黙”を美徳とするなら、セリフがそれを破るにはもっと圧倒的な感情が必要だった。 けれどそのギャップを埋める工夫が、足りていなかったように感じる。

デンジは“バカな子”じゃない。 感情の輪郭がはっきりしているからこそ、あの欲望や下心も愛せる。

だから、叫んでほしかった。 感情をぶつけて、恥を晒して、泣きそうな声で「生きたい」って言ってほしかった。

「オレ、ふつうの生活がしたいんだよ…!」

そのセリフにこもった切実さが、どこか“音量小さめ”で届けられたとき、 原作で感じた「胸ぐら掴まれるような共感」は、静かに遠ざかっていった。

感情を乗せきれなかったセリフたちは、 どこかで「わかってるけど刺さらない」という、いちばんもどかしい状態を生んでしまった。

キャラの叫びを殺さないでほしかった。 それは、私たち視聴者が心の中で、誰にも言えずに握りしめてる“本音”だったから。

失敗理由④:“静けさ”が描きすぎた世界──日常描写とホラーのバランスが崩れた瞬間

失敗理由④ 要点
“静けさ”が描きすぎた世界──日常描写とホラーのバランスが崩れた瞬間 アニメではリアルな生活描写を丁寧にしすぎたことで、ホラー演出とのギャップが薄れ、緊張感や恐怖の“起伏”がぼやけてしまった

「日常があるから、恐怖が刺さる」。 これは、ホラー表現の基本的な構造だけど──『チェンソーマン』は、その“緩急”の振れ幅が魅力だった。

原作では、何気ない部屋の中、くだらない会話、脱力した表情── その“ゆるさ”から一転、次のページでは血しぶきと絶望が飛び出す。 「えっ、こんなタイミングで!?」って心が追いつかない感覚が、逆に快感だった。

けれどアニメ版は、この“日常”をあまりにも丁寧に、美しく、静かに描きすぎてしまった。

冷蔵庫の音、こもった光、木漏れ日のグラデーション── そういうディティールに目を奪われる一方で、「この世界は何が起こってもおかしくない」という、原作特有の“緊張感”が薄まってしまった。

ホラーとは、「予定調和じゃないこと」が突然起きること。 だけどアニメでは、その“突然”が、いつの間にか“おしゃれな導線”で予告されるようになってしまっていた。

その結果、視聴者の心が防衛してしまった。 「ああ、ここで何かあるな」と身構えられてしまう時点で、もう“怖さ”は削がれている。

なにより、デビルの出現シーンや戦闘に突入する瞬間── 本来なら一気に心拍数が跳ね上がるはずなのに、「静けさ」が前景にありすぎて、逆に“体温が上がらない”まま終わってしまう。

原作で感じた「間のなさ」、突然の非日常への“落差の快感”が、アニメではどこか“予測できる日常”に埋もれてしまった。

「日常パートを大事にしたかったんだろうな」 「でも、それは“怖さを溶かす毒”にもなってた」

この演出の狙いは、おそらく“重厚なドラマ性”だったのだと思う。 けれど『チェンソーマン』という作品は、日常とホラーの間をぶっ壊して突っ走るような、そんな“粗さ”がむしろ生命線だった。

だからこそ、あの静けさが「正しい」だけで「面白い」に繋がらなかった。 丁寧すぎたからこそ、あの作品らしさが少し遠のいたのかもしれない。

失敗理由⑤:アクションシーンの“カッコよさ”が、原作の“泥臭さ”を飲み込んだ

失敗理由⑤ 要点
アクションシーンの“カッコよさ”が、原作の“泥臭さ”を飲み込んだ スタイリッシュな演出が戦闘の“痛み”や“雑さ”を消してしまい、チェンソーマンらしい“血まみれのリアル”が弱くなった

原作の戦闘シーンって、“勝ってる感じ”がまったくしない。 血を吐いて、臓物飛び出して、腕がちぎれて、でも「それでも立つんかい」ってくらい、デンジはしぶとかった。

あの泥臭さ。無様さ。肉体が限界を超えてなお動く姿に、 「強い」より先に、「まだ…生きてるんだ」って思わされる。

けどアニメ版では、その痛みが“美しさ”に変換されていた。 スローモーション、華麗なカメラワーク、立体的で重厚な構図── どれもすごかった。でも「キレイすぎた」。

戦闘が映画みたいでカッコよくなりすぎたことで、 デンジの「死ななさすぎる感情」が薄くなってしまった。

チェンソーを振るうデンジは、本来なら“絵にならない男”だった。 めちゃくちゃで、体当たりで、理屈なんて吹き飛ばして、 「勝ち方」じゃなくて「生き延び方」だけで殴ってる。

でもアニメは、そこに“戦いとしての美学”を乗せすぎてしまった。 勝ってなくても、どこか“かっこよく処理された映像”になっていた。

作画的な凄さは確かにすごい。でも、視聴者が感じたかったのは「迫力」じゃなくて、「本当に痛そうな戦い」だった。

たとえば、斧の振り下ろしに骨がきしむ音がして、 血が視界を覆って、動きがブレて、画面が見づらくなる── そういう「現場の荒さ」が欲しかった。

「アニメは、戦いを“魅せた”。 でも、原作は“戦いで傷つけた”」

この違いが、作品の印象を決定的に変えてしまった。 「カッコよすぎるアクション」は、たしかに記憶に残る。 でも、「痛そうなアクション」は、心に刺さる。

その“刺さり”がなかったことが、ファンにとっての「物足りなさ」につながったのかもしれない。

失敗理由⑥:オープニング・エンディングの完成度が逆に浮いてしまった理由

失敗理由⑥ 要点
オープニング・エンディングの完成度が逆に浮いてしまった理由 OP・EDの映像や楽曲のレベルは高かったが、本編と温度差があり、作品への没入感を妨げた

「すごい」は「好き」とは限らない。 たしかに、アニメ『チェンソーマン』のOPとEDは、とんでもなくクオリティが高かった。

米津玄師による主題歌「KICK BACK」、実写映画のオマージュを詰め込んだ映像、 各話で変わるEDテーマ──どれも「アニメ業界の新時代」と呼ばれてもおかしくないほどの挑戦だった。

でも、不思議と“本編と分離して見えた”んだ。

OPとEDが“すごすぎた”せいで、まるで別作品みたいに浮いてしまった。 キャッチーでノリのいい楽曲と、緻密に構成された映像世界。 それは「アート」として完璧だったけど、「物語の入口・出口」としては、どこかズレていた。

たとえば、OPで流れる米津の歌声は、めちゃくちゃ高揚感がある。 でも、本編はわりと“静かで湿っぽい”。 このギャップが、作品全体の温度バランスを崩していた。

しかもEDに関しては、毎回楽曲と映像が変わる試みが話題になったけれど── 「おしゃれだな」と思う反面、「キャラの感情に浸る暇がない」と感じる回もあった。

本編の余韻が、そのままEDに“押し流される”ように感じて、 物語の痛みや感情の行き場が、音と映像の豪華さにかき消されてしまう瞬間があった。

「EDが変わることで、“統一感”よりも“実験性”が際立ってしまった」

OP・EDの“演出としての完成度”と、“作品との親和性”は別の話。 その境界線を意識できていなかったことが、 「かっこいいのに、なんか合ってない」という違和感につながった。

『チェンソーマン』という物語は、もっと“汗と血と後悔”でできていたはず。 そこに「尖ったアート」を差し込むと、視聴者は思考を切り替えなきゃいけなくなる。

つまり、「アニメを観てる感覚」じゃなくて、「MVを観てる感覚」になる。 それが、“没入感の断絶”を生んでしまったのかもしれない。

OPとEDは、たしかに挑戦だった。すばらしい実験だった。 でも、“アニメとしての共鳴”がなかったことで、その輝きは作品の一部じゃなく、“別枠の存在”になってしまった。

失敗理由⑦:MAPPAの挑戦は“正解”だったのか?──制作スタイルの是非

失敗理由⑦ 要点
MAPPAの挑戦は“正解”だったのか?──制作スタイルの是非 映像美と実験性を追求したMAPPAの演出方針は評価されたが、原作の熱量や粗削りさと相容れず、視聴者との期待にズレが生じた

MAPPAのアニメは、すごい。 それは誰もが認める事実で、『呪術廻戦』『進撃の巨人』のクオリティは世界レベルだった。

そして『チェンソーマン』でも、MAPPAは「新しい表現」に挑んだ。 実写映画的な演出、空気を切り取るような映像美、EDの週替わり演出……

でも、その“挑戦”が、なぜかファンの心に響かなかった。

「すごいのに、好きじゃない」──そんな声が多かった。 それはつまり、MAPPAが作ったのは「最高の映像作品」だったけど、「チェンソーマンではなかった」ってことかもしれない。

そもそも原作『チェンソーマン』は、 雑さとギラつき、感情の爆発と“間のなさ”が魅力だった。

そこにMAPPAの“スタイリッシュな空気感”が乗ると、 “粗野な叫び”が、“整った表現”に包まれてしまうという矛盾が生まれてしまった。

これはMAPPAが悪いわけじゃない。 でも、「MAPPAだからこその演出」と、「チェンソーマンという素材」が、 おたがいに“強すぎた”んだと思う。

さらに、制作スタイルの中で一部ファンの不満を呼んだのが── 監督・中山竜氏の「1人原画主義」だった。

本作では、演出だけでなく原画も中山監督が多数担当。 表現の統一感やビジョンの濃度は高かったけれど、 一方で、「MAPPAが総力戦で作る」という期待とは違う形になっていた。

「これはMAPPAのチェンソーマンじゃなくて、 中山竜のチェンソーマンだった」

そんな感想も見かけた。

つまり、“制作会社”としてのMAPPAではなく、 “個人制作者”としてのカラーが濃すぎたことで、 チームで仕上げたアニメならではの「バランス感」が薄れたのかもしれない。

尖った表現は、感性が合えば神回になる。 でも、合わなければ置いていかれる。

MAPPAの挑戦は、間違いではなかった。 けれど「原作を読み込んだファン」にとっては、 それが“作品を変えた”ように映ってしまった。

挑戦する側と、受け取る側。 どちらも正しくて、どちらもズレてた。 その“すれ違い”が、チェンソーマンアニメ版の宿命だったのかもしれない。

(チラッと観て休憩)【劇場版『チェンソーマン レゼ篇』特報映像】

失敗理由⑧:原作の“救いのなさ”を、アニメはどう描き損ねたのか

失敗理由⑧ 要点
原作の“救いのなさ”を、アニメはどう描き損ねたのか 原作に漂っていた“希望のなさ”や“虚しさ”が、アニメ版では映像演出によって中和され、感情の刺さりが弱まった

『チェンソーマン』って、希望がない話だった。 でも、その「希望のなさ」が“リアルな感情”として胸を刺してきた。

食うものに困り、殺されかけ、愛されたくて、捨てられて、 死んだら楽になれる…っていう世界で、それでも生きるデンジ。

そんな彼に、私たちは「がんばれ」とか「幸せになってほしい」とか言えなかった。 だって、“この世界には救いがない”って、原作はちゃんと描いてたから。

けれどアニメ版は、その絶望を“湿度”として包んでしまった。 闇の深さを、照明や音響の静けさで表現することに偏った。

そのせいで、「絶望の痛み」が「ただの静けさ」に変換されてしまった瞬間があった。

たとえば、パワーの叫び。早川アキの涙。姫野の最後。 原作では、どれも“どうしようもない”っていう叫びだった。

でもアニメは、それを綺麗に流してしまうような描写が多く、 視聴者に残るはずの「後味の悪さ」が、消えていた。

「やるせなさを、ちゃんと“刺す”ことをしなかった」

“闇を描く”ということは、ただ暗い色を塗ればいいわけじゃない。 そこに生々しい“体温のない絶望”が宿ってこそ、意味がある。

たとえば、デンジが「ポチタの夢を叶えたい」って言った時── 本来なら、あの言葉は「人としての願い」じゃなかったはず。

それは、“希望に擬態した諦め”だった。 「どうせ報われない。でもせめて…」っていう、 泣くことも許されない少年の祈りだった。

でもアニメでは、それが“優しさのシーン”に見えてしまった。 そこが、惜しかった。

アニメは「綺麗にしたわけじゃない」。 でも、「感情を強く刺すこと」を避けたように見えた。

『チェンソーマン』の原作が持つ、“救われないのに読み続けてしまう吸引力”。 それはきっと、「光がない場所にいる自分ごと肯定されるような感覚」だったと思う。

アニメには、その“心の居場所”がなかった。 絶望は描かれたけど、優しさに包まれてしまっていた。

ファンが欲しかったのは「癒し」じゃなくて、 「自分のやるせなさを代弁してくれる、諦め方」だったのかもしれない。

失敗理由⑨:セリフの温度が違った──“言い方”で失われた感情

失敗理由⑨ 要点
セリフの温度が違った──“言い方”で失われた感情 同じ台詞でも、“声のトーン”や“間”の違いで伝わる感情が変わり、原作で感じた痛みや切実さが薄れてしまった

アニメと原作の“差”って、ストーリーじゃない。 セリフじゃない。演出でもない。

いちばん微妙で、いちばん大きいのは── 「そのセリフ、そんなふうに言うんじゃない」っていう、“温度のズレ”だった。

たとえば、デンジの「俺にとっちゃあ、これが夢なんだよ」。 原作だと、あのセリフには“開き直りと涙の境界線”が滲んでた。

でもアニメでは、どこか“明るい”響きで流れていった。 感情の奥にある“痛さ”が、トーンで消えてしまってた。

これは声優が悪いわけじゃない。演出の方向性の話。

「叫ぶ」「泣く」「笑う」──それ自体は原作にもあった。 でも、“どういうテンションで言うか”によって、まったく別の物語になることもある。

早川アキの「うるせえ!」が、ただの怒鳴り声になっていた時、 原作で感じた“悲鳴に似た怒り”は、どこかへ消えていた。

「セリフは合ってるのに、感情が違う」

この齟齬が積もると、 「自分が好きだったあのキャラじゃない」って思ってしまう。

しかも厄介なのは、“台本通りなのに、違って聞こえる”ってこと。 声の抑揚、呼吸のタイミング、間(ま)──そのどれもが、“作品の表情”を変えてしまう。

原作ファンは、心の中に“勝手なアフレコ”をしてる。 だから、「このセリフ、こんな声じゃなかったのに」って思ってしまうのも当然だった。

でもそれは、ファンのわがままなんかじゃなくて、 「キャラの感情に、自分を重ねていた証拠」だったんだと思う。

アニメの声が、悪かったんじゃない。 でも、“その声”で、“そのトーン”で、“その間合い”で話されることで、 原作の持っていた「感情の微細な震え」が見えなくなった──そう感じる人が多かった。

そしてその“ズレ”が、「このアニメ、なんか違うんだよな」っていう違和感を、 最後まで払拭できなかった。

言葉は、文字だけじゃなく“温度”を含む。 その温度が、ほんの少し違っていた。 それが、原作ファンの心に棘を残した理由だったのかもしれない。

まとめ:これは“失敗”じゃなく、“ずれた愛”の記録だったのかもしれない

怒りの理由 すれ違いの本質
実写的すぎる演出 アニメならではの“勢い”を失い、テンポ感が削がれた
アクションの迫力不足 “殺意と狂気”の温度が弱く、爽快さを欠いた
ギャグの間が死んだ 笑いが成立しない演出で“日常の異常さ”が薄れた
キャラの内面が見えにくい 感情の揺れを描く余白が削られた
原作の“勢い”が削がれた 爆発的な展開が静かに処理され、衝撃が薄れた
“演出家の色”が強すぎた MAPPA作品ではなく、“中山監督の個人作”に近づいた
絶望の描き方に違和感 “希望のなさ”が優しい空気感に中和されてしまった
セリフの温度が違った 声や言い回しで“感情の震え”が伝わらなかった
“期待”とのギャップ ファンの心にあった「チェンソーマン像」とのズレ

9つの理由──どれもが、原作を“愛していたからこそ”の違和感だった。

MAPPAの映像は、文句なしに美しかった。 演出も、新しい挑戦だった。 セリフも、声も、背景も、間違ってはいなかった。

でも──「心に刺さる角度」が違った。

ファンは、漫画にしかない“ザラザラ”を大切にしてた。 綺麗じゃない線、間のない会話、デフォルメされた叫び、笑えないギャグ。

アニメは、そこを“整えすぎてしまった”のかもしれない。

原作の粗さは、不器用なキャラたちの「生き方そのもの」だった。 その温度をまっすぐなまま映すのは、きっと想像以上に難しい。

これは“失敗”だったのか?

──たぶん、そうじゃない。

これは、愛し方のすれ違いだった。 原作への愛、アニメへの敬意、視聴者の期待── それぞれがズレたまま、熱を持ちすぎてぶつかってしまった。

きっと、このアニメを“許せなかった”人も、 本当は「好きだから悔しかった」だけなんだと思う。

だから最後に、こう言いたい。

「この作品を“諦める”ためじゃなく、“もう一度好きになる余白”として、 この記事がそっと寄り添えたらうれしい」

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この記事のまとめ

  • アニメ『チェンソーマン』は“映像美”とは裏腹に、原作ファンとの間で感情的なギャップを生んだ
  • 全9項目にわたり、“演出・テンポ・セリフ”などのズレが“愛してたからこそ許せなかった”という温度で語られた
  • 原作の“粗さ”や“雑さ”が、実はキャラの魂を映す大事な輪郭だったことに気づかされる
  • アニメが“失敗”だったというより、“解釈の違い”と“愛し方のすれ違い”がすべての根源だった
  • この記事は、その怒りを「もう一度、好きになる余白」として受け止めたファン視点の記録

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